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独りよがりニーチェ、自らを語る

ホーキングに魅入られた、人生真っ暗な人間です。

村上春樹、新刊刊行に先んじて

2017年、
早速、村上春樹が長編小説を今年2月に刊行すると告知を目にするやいなや、「アンチ春樹」「ハルキスト」と呼ばれる人たち(春樹チルドレンも指す)がきっと批評大会になるのは自明であることは、本好きならある程度は予見できると思う。

様々な掲示板を通じて、村上春樹に対する酷評(批評も含めて)を見て疑問に感じるというよりは何かむず痒くなるようなものがあったからだ。

それらをまとめると
・よく村上春樹を好むもの達を特別「ハルキスト」と呼んだり、自称したりする傾向があるということ

別に、僕個人に至っては、好きな作家は誰ですか?と聞かれるようなことがあれば“村上春樹”ですと答えるくらいには好きだと思う。

一概に、春樹が好きだからといって、全春樹小説や春樹本を読んでいるわけではないので真にハルキストと呼ばれる人達の足元には及ばないはずだ。(こんな記事を書いていながらも)

ただ、村上春樹を好き好んで何作品か読んでいると分かってくるのが、この作家ほど人を選ぶ小説はないということが身に染みて感じる部分が少なからず存在しているということ。

主な理由としては第一に、(幾つかの点をあげるとすれば)
・世界観が独特であること
・文章の多くに比喩が混じっており、難解である
・読者層が固定されていない

以上の3つが春樹作品を語るうえで重要視しなければいけない箇所だと僕は個人的にそう考えてはいるが明確な答えがないのでここは僕の上記に挙げた3点の理由を念頭に入れた上で、話を進めることにしよう。

どの辺りから書き始めようか迷っているのわけだが、最初に挙げた「ハルキスト」「アンチ春樹」について詳しく自分の考えを拙いながらも理解の助けになるようなものを書けたらなと思っている。


ここで本題に入ります。

ハルキストというのは、熱狂的な村上春樹ファンのことで、様々な点で村上春樹から影響を受けている人のこと。ただの読者にあらず。ただのファンではない。彼の著作から、考え方や生活スタイル、つまり生き方を学んでいる人、そういう人を“いわゆるハルキスト”と呼ぶのだ。

まとめサイト「なぜか叩かれてる『にわかハルキスト』たちの特徴とは?」からの抜粋

これは…なるほど。あるかもしれない。

確かに、なんでもかんでも自分の価値観だけを押し付けてくる人間がいるとしたら普通の人ならば迷惑以上の何ものでもないかもしれない。現に若者間での(自分も含め)アーティストやアイドルに飽き足らず、アニメにまでそのような押し付けがあるのだから多少目を瞑るのが策だと。


ーしかし、ではなぜ“ハルキスト”がここまで世間から“アンチ春樹”に至るまで煙たがられるのか。


要因としては、“文字媒体でかつ活字であること”なのではないかと僕個人はそこに着眼点があると思う。
僕が春樹の存在を一番最初に認知したのは、1Q84で(当時は中学生の頃)テレビでもすごく話題になっていたと今でも記憶している。

あの頃は、ライトノベルハリーポッターのような海外児童文学を読む方が好きだったので1Q84はパラパラめくって拾い読みしても難解で全然面白くもなんともなく、「こんなの誰が読むか!自己満足の塊だし、何より読みづらい!」とすでに半アンチ春樹状態だった…(笑)

引用で挙げたように、作品に出てくるものまで真似て生活スタイルに組み込むということも世間の人から嫌われる要因の1つに繋がっているらしい…

でも、それを言うなら他のものにも置換することができるしそこは決定的な理由にはならない(むしろ、叩く側はそれを嫉妬に近いものでやっているかもしれない)と思う。それこそ、マンガでコアなファンが多いといえばジョジョの奇妙な冒険だろう。あれも、ファンからしてみればにわかが続出するものになのがあまり話題にならない。


では、何がそこまで人々を惹き付けるのか。


そう、村上春樹コンテンツが飽和しきった世の中の新たなファッションに近いものなのである!
(これは少なからず断言できる)

例えば、高級ブランドを見に纏い付けていないものへマウントを取るように春樹は一種のコンテンツとして(ファッションとして)世間に認知されここまで肥大化したのではないかと。


先ほど、僕が“文字媒体でかつ活字であること”を挙げたが、これを言い換えればマンガのような大衆娯楽なものではなくて、春樹小説がもっと洗練された格調の高いものであるとすれば昨今、趣味を持っていなかったものたちや読書を趣味としていたものたちからすれば、より公にオープンに曝け出すことへの大きな力として働いていると考えられる。

読書なんて地味な趣味は、あまり一般的には打ち明けきれないものであると思う(実際に僕がそうだった)
本を読むことが趣味なんてやつは、性格も地味でやる事なす事地味に決まっているというレッテルが世間一般にあるのだからしょうがないといえばしょうがない。


ここで春樹の出番だ。

春樹が1Q84を境に、より多くの人の目にとまり注目を集めることによって読書を生業としていなかった層までも本を買ってとりあえず読む。経済学的に例えると、乗数理論のようにどんどん本が読まれ世間に浸透していく。でも、「実際読んでもわからない、理解できない」と口にする人がで始めると次は、聡明な学者や著名人が春樹小説について喋るとどうだ、「理解できる人間は頭が良い」「センスがあるに違いない」といった解釈が生まれてくるのも自明ではないか。


こうして、乗数理論的に世間を賑わせた結果できたのが“ハルキスト”の正体ではないか?
彼らは好きで本を読んでいただけで、何も悪いことはいていないし、普段出しゃばるようなこともしないはずだ。しかし、メディアのような大きな情報力をもった存在がこうしたものを生み、終いには村上春樹作者本人のイメージまでも作りあげてしまうことになってしまった。


そういった理屈をただ並べるだけでは、話が大きくなりすぎるし、僕にとっても辛いものになってしまうので結論を最後に述べたところである程度の誤解は解けたらな、とは思う。



結論
“ハルキスト”とはいわば一種の熱狂的なサポーターとなんら変わらないものであり、にわかとはやし立てる人ほど害な人間はいない。逆に、春樹を執拗に押し付けてくる人間は純粋に作品を楽しんでいるのではなく、エゴイストとして自己陶酔しているだけのこと。どんな作品であれ、人生に影響を与える作家なんてそうそういないし偏見を持つより先にまずは、自分の目で確かめてみてはどうだろうか。それから、“ハルキスト”、“アンチ春樹”など好きなようにしてみては。



あとがき
読んでみて何かの理解の助けになればと思っていますが、どうでしたでしょうか?
尻切れトンボのような感じになっていると思った方は、間違いなく僕よりも幾分優れていると思うので読んでもなんら既知情報だ、それくらいわからないでなにが春樹読んでますだ、などといった個人の考えをお持ちかもしれませんがどうかそこは片目を瞑ってください。(笑)
まだ僕自身春樹の全作品に目を通していないのであまり公言できませんが(ファンの方に申し訳ないと思って)僕が個人的に春樹を勧めるときは、海辺のカフカ」一択か、「レキシントンの幽霊」このふた作品になります。(たまに本自体苦手だと言った人には、さりげなく「風の歌を聴け」を推してます)

まあどうあれ、村上春樹の世界は思ったより深く、優劣をつけるにはまだ早いと悟ったまでです。(笑)

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。






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2016/12/20 ①

親愛なる,

君へ


僕が、君になぜこのような形である事柄を伝えようと思ったのか、別にその事柄は知っているひとは知っているし、知らない人がいても何らおかしい事はない。(ただ、この手記はあくまで既知の人が読んでも何も面白くもないし、為になったと思えるものではないと思うのでここで読むの止めた方がいいかもしれない)

これは、少数のごくごく一部の者たちへの警告であり、ある者によっては希望へと繋がるものかもしれないことがあるという前提で書かせてもらうことにする。(何度も言うが、これは大多数が読んでもなんら面白みの欠けらもセンスという言葉も存在しない問題なので強く読まないことをお勧めする)


主題は、そうだな、ありきたりだが「奨学金の行き先」というのはどうだろうか。
あまりパッとしないものではあるが、僕の学が露呈するかのようで恥ずかしい気持ちもあるのだけれど、書き綴らせていただくことにする。


特に大学(高校やそのほかにもあるかもしれない)に重きを置いて話を進めていくことにするが、もし万が一これは正しくない意見だとか、既知知識だと思うのならばここで読むのをやめて置くことを強くお勧めする。これは僕の強い主観で書かれているもので正しさを1ミリも追及していないことは理解してくれとしか言いようがない。


奨学金というのはよくご存知の通り、お金を政府から借りてその借りたお金を大学の学費としてか、上京の際の一人暮らしの費用に当てるという人が多いだろう。では、ここである問いを君に投げかけようと思う。

問い
君はそのお金を借りてまで、学びを得るに値するのか。
また、その大学は借りてまで通う必要のあるものなのか。
さらに、その借りて返すという責任を持ち合わせているか。

この3点に置いて、僕は常に疑問を持っているし、上記の三点について僕は見事これらを知らずに大学へと入学し、半ば後悔というよりは絶望を感じつつ1年ではあるが学生生活を歩んできたことへの懺悔や自戒の意味を込めて君に知ってもらいたい。

この3点に置いての答えは各々違うだろうし、正解でも間違っていることもない問いなのであまり難しいことは考えずに読み進めてもらえるといいだろう。(僕もあまり頭が良い方ではないので)

僕はある地方私立大学に今年の五月まで奨学金を借りて学生生活を丸1年間過ごしていたがしかし、元々あまり大学というものがあくまで高校の延長線上であり、社会から少しでも遠ざかりたいという想いで選んだ選択肢なので良い選択ではなかったと振り返ることができる。

僕の家庭は富裕層でも一人っ子でもないので、僕を大学に行かせるには少々荷が重いものだったので高校側からの提案ということもあり、「奨学金」を借りて通うことになる。その当時は、あまり借金をするという事を深く考えたこともなかったし、4年間通ってもたかが400万というくらいにしか考えていなかった。(これはかなり浅はかな考えであったことは重々承知である)

ただ、400万というものがどれくらい卒業後であれ、大変かというものを僕はあまり知らない。それ以前に大学を中途退学したのだから、それはそうかもしれない。おかげでという言い方は少しニュアンスとしてはおかしいかもしれないが、僕はおかげで最小限の借金をすることで負のスパイラルから脱却することができたということだ。最小限とはいっても、成人式を来年迎えた同時に20歳になる僕にとっては100万もの借金は大変辛いものであることは理解していただけるに違いない。

僕が社会人になることを前提とした話であるならば、たかが100万なんてと思う方もいるかもしれないが、僕は学びを得る為に大学進学を胸にフリーターでもいい、浪人をするということを誓った身なのでこれは本当に無駄とも言えるお金でもあるし、馬鹿な選択をしたと自分を卑下することもできるがそんなことをしていては前に進むことはおろか、後退していくばかりではないか。

それならばいっそ、100万を働いてすぐに返せるじゃないかとなるがそれは僕の心情を察してくれればわかることだろうと思う。使わなかった奨学金が幾らか残っているものもあるのでそれを元手に最小限アルバイトで稼ぎつつ返済にあて、親に迷惑にならないよう浪人するつもりでいる。勉強をしながら働くのは大変難しいことなのはわかるが、君はお金を持っていないものたちのことを少なからず考えたことはあるのか。

どんな人間であれ、「奨学金」というのは一種の通過点としての事象でしかない。
ただ、ここで誤解しないでほしいのは「奨学金」について知っている人があまりにも無知な場合、お金に足元をすくわれ、蹂躙されることが目に見えているのにもかかわらず負のスパイラルへと歩を進め、我に返った時にはもう道がない、でも世間からは叩かれる。それでは、死のうとなる方が自然だろう。

(次回へと続く)


少し長くなりすぎたので、ここで一旦綴るのをやめるとしよう。


次回に持ち越しとなったことは、あまりにも僕の文章が如何に拙く、まとまりがなかったかと自分でもよく理解しているので今度は上手く書ききれるように努力していくつもりだ。



とりあえず、君は辛抱強く読んでくれてありがとう。心から礼をする。


僕より

2016/12/15


まず、最初はやはり僕の自己紹介というか、僕自身について語ろうと思う。
ここに文字として書き記すことに関していえば大した意味は存在しない、あるのは僕のエゴが満たされるということである。殆どが雑記という形になるかもしれないが、そこはどうか片目を瞑っていや、大目に見てやってほしい。(そうしてくれるとありがたい)

僕が僕自身について語る時、何処から書いていけばよいか分からなくなるのだが、出生などを抜きに(プライバシーとして)書き記すことにする。過去の出来事については、一切触れずに現実と向き合うことを中心とした自己紹介という形式を取ることになるだろう。



それでは、始めよう



僕は2016年から計算するとざっと、19歳で来年の一月に成人式を迎えるどこにでもいる19歳である。
ただこれだけだと、日記のような日々の出来事を綴っているようには見えないだろう。(たしかに、19歳という情報だけでは幾分、少なすぎる)

では、僕が高校を卒業する18歳頃を軽く簡潔に記す。

僕が卒業した高校は大して有名ではない(ただし、数十年前は陸上競技で全国に名を馳せる高校であったらしいが)、偏差値という指標で出すのであればおそらく40前後だったと思う。(故に、僕自身頭が良いという認識よりも勉学に関していえばかなりの劣等感を感じていた)
僕を含め、卒業した高校の主な進路先は専門学校が半数以上を占めているくらいには大学進学を選択するものが一クラスよりも多いくらいであった。僕は専門学校を高校2年生の頃からデザイン系専門学校に進学すると当時の担任にも、両親にもそう言っていた。

ただ、3年生に上がり高校最後の夏休みを迎えるとふと、僕は専門学校に200万円を払ってまで学ぶものがあるのだろうかと今までの僕とは裏腹に疑心暗鬼な気持ちになり、急遽進学先を大学進学に進路変更をし、担任にどうしても大学に通いたいと懇願し、地方私立大学に推薦で入れてもらえることになった。(僕の在学していた高校では成績評価が甘かったのかもしれないが、僕は評定が4.4だったこともありその私立大学には特待生に近いそれで、半額免除で一年間通わせてもらった)

そうして、現役で地方私立大学に入学するわけだが、僕は特に何も考えずに大学へと進路を進めたのでたぶん、専門学校に通ってるのと同じだったかもしれない。

僕は特待生で入っていたが、大学では殆どがアルバイトに費やしていたので成績が基準に達していなかったので2年にあがる頃には免除が取り消され通常の学費を支払うことになった。


そこで初めて僕の目が覚めた。


僕はこの一年何をしていたんだと。


少なからず、18という年齢では社会に出るのが僕は嫌で少しでも社会という大きな存在から逃げるようにして大学を選び逃げたのだろうと思う。

大学2年になりすぐ、退学を決意し、親に申し入れ今年の5月に大学を中退という形で去ることになる。
おかげで、奨学金を借りていたこともあり多からず、プリウスのような中流家庭が乗るような車が中古で買えるくらいの借金を19歳にして背負っているのが現状なのである。

僕は退学を決意した時、改めて勉学をすることの重大さに気づいた。これは僕にとって大きな収穫で、僕の人生において少なからず影響を与えたに違いない。おかげで、大学にもう一度新しい形で通いたいと思うようになり、現在はある意味では浪人生、別の意味ではフリーターという社会にとっても中途半端な存在として僕はいま生きている。

自らの地位を捨て、負け犬のような一年になると思う。
これはあくまで僕の予想で今年中には変わることがないことで、もう一年味わうことになるだろう。

そこで、成人式を迎えるのだから僕の心境として20歳という節目としては僕の中で最大の汚点になる年でこの世から消し去りたい事実でもある。


でも、僕はその選択を自らしてしまったのだから受け入れるしかないし、あるいは、それを正の方向へと導けるようにしなければならない。



どうか、これを読んでくれた人には僕を反面教師として読んでいただきたい。



僕の過ごす20歳は誰よりも厳しく辛い20歳にならなければいけない。